LOST AND FOUND
およげ、
わたしは魚座なのに、泳げない。
中学の水泳の授業。他の人が泳ぎ終えた中ひとりだけプールに取り残されて、学年みんなが待つ方へ、息の吸えていない醜い顔を晒しながら泳いだ、というか半ば溺れていた時の惨めさを今でも覚えている。それから高校はプールがないことを第一条件に選んだし、もう二度と水のある場所には行かないと誓った。
それなのに今年の夏、私はうっかり海水浴場に来てしまっていた。
どうも巷で「平成最後の夏」や「エモい」などと呼ばれている伝染病にとうとう私もやられてしまったらしい。
たまたま訪れた街で海が近いことを知って来ただけなので水着もビーチサンダルも持ち合わせていない。ビーチに不似合いな洋服姿で砂浜を歩く。一歩ごとに右肩のトートバッグに入ったmacが重たくのしかかってくる。課題、終わっていないんだった。足が砂浜にめり込む。東京のにおいの染みついた黒い革靴に砂がどんどん入ってくる。
鬱陶しくなって靴も靴下も脱いだら砂が熱くて全然立てなくて、尾びれどころか裸足になることすらできない。私はずっと泳げないままだ。
それは現実世界にしたって一緒だった。上手く渡って行けない。
でも私にはこの憂き世をほんの少し泳ぎやすくしてくれるものがある。
鯛焼きだ。
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ええ、特に関係のない前置きが長くなってしまったのだけど、今回は私の好きな食べ物第1位!鯛焼きへのラブの表明と布教をしたいだけです。どれくらい好きかというと、2週に一度は食べていて、「東京のたい焼きほぼ百匹手帖」というただただ鯛焼きのみがおよそ100匹載った本を大量に付箋をつけて愛読し(これはヴィレヴァンで見つけた)、果ては鯛焼きのシルバージュエリーを作ってしまったくらい。
さて、鯛焼きには天然物または一丁焼きと呼ばれるものと養殖物、連式と呼ばれるものがある。これは型の違いなのだけど、後者がたくさんの鯛焼きの型が連なって一気に複数出来上がるのに対し、前者は鯛焼き一匹に対し型が1つで、重さ2kgもあるそれをいくつもガシャンガシャンとひっくり返しながら焼いていくので大変な重労働になる。だから年々お店の数も減ってきてしまっている。でもこちらの方が皮が薄くパリッと仕上がるので断然美味しい。
鯛焼きは型が違えば当然鯛の顔や模様も違っていて、同じチェーン店でもさらにその人の焼き具合で店舗ごとに別のニュアンスが生まれる、その違いがとても楽しい。私が好んで食べる一丁焼きの薄い皮の鯛焼きは、中の餡を透かしてとってもセクシー。顔を近づけると粉の甘い匂いがして、歯を立てると軽い歯触り、そしてその中から現れる熱い餡の愉悦といったら、ああ、もう。
しかしこうした製法や見た目、味の違いも魅力の1つだが、実は鯛焼きの最も愛すべき点はファストフードというところにある。
私はどうも鈍くって、しょっちゅう道に迷ったり電車を間違えたりする。そして毎回律儀に自分の不注意に落ち込む。そんな時、すがるように近くの鯛焼き屋さんを探す。大体近くの数駅の中に見つかって、安心する。ああ、よかった。それを頼りにほんの少し生きられる。間違えて来た場所が、正解になった。
大抵のお店は駅から5分は歩いたところにある。この5分という距離が実は後々けっこう大事。
余程ピークの時期じゃない限りほとんど並ばずに買うことができる。カスタードやらさつまいも餡やらハイカラな味もあるけれど迷わず小倉あん一択。「食べ歩きしますか?」の声にもちろんはいと答えて、ちょっとお行儀悪いけれど齧りながら駅までまた引き返す。残りが少なくなるにつれて、そして駅が近づくにつれて少しずつ現実に戻っていく。餡子の少ない尻尾で口直しをした頃(私は頭から食べる派である)改札が見えてくる。ああ、お腹があったかい。よし、やっていける。
という感じで憂き世トライアスロンの補給地として使っている。今気づいたけれど泳ぐどころか歩くこともできてなくて自分に呆れてしまう……。まあそれはともかく、すぐに食べられる・お金がかからない・色んな街にある・だけど店によって鯛の顔も皮も餡も違う面白さがある、などの点が補給地として最高の魅力だと思う。
私以外にも現実カナヅチであるという人はたくさんいると思う。というか全人類そうだろう。数多いる同胞たちよ、ちょっとだめになってしまった時、どうかこの優しいお魚を食べて、また泳げるようになって。
あるいは鯛焼きじゃなくても何か自分の補給地を探してみてね。
最後に。
クロワッサン鯛焼きは、邪道。
共有知
ハロー、ハロー、お元気ですか。
時々、あてもなく携帯に話しかけることがある。その時、この言葉から始める。ハロー、ハロー、お元気ですか。
これは同じようにあてのない電話にまつわる小説、壁井ユカコの『NO CALL NO LIFE』に出てくる文言に由来するのだけど、今引っ張り出してみたら少し違っていた。ハロー、ハロー、聞こえますか?
これは、どこかに、聞こえていますか?
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私は抽象的なことや概念をこねくりまわすのが得意だと思う。
一応芸術をやる場に身を置いていて、そこでは考えたことを作品に転換することで多少なりとも実を結んできた。
でも実生活に役立つことはなんにも知らない。
家事をやれば皿を割り、コンロを水浸しにし、外に出れば電車を乗り間違え、道に迷い、鍵をなくす。正しい鉛筆の持ち方も、新聞の縛り方も、電気ポットのお湯の入れ方も、最近なんとなくできるようになってきたばかりだ。
それなのに愛とか、ジェンダーとか、たましい、こちら側と向こう側の境界線、そんな役に立たないことばかり考えていていいのだろうか、と思う。
だけれど私はやっぱり考え続けることしかできないので、それを共有知として公開しようと思った。
共有知の力を信じている。
例えば私は旅行に行った時、ほとんど写真を撮らない。
一緒に行った誰かの方がずっと上手く写真を撮ってくれるし、ネットにはベストな時間にベストな機材で撮られた美麗な画像がたくさん落っこちているからだ。
得意な誰かがそれをやって、皆で共有できたらそれでよくない?そうしたら人類もっと早いスピードで発展できるんじゃない?
ねえ、やっぱりさ、昔の哲学者だって余暇から生まれたものだし、今はいい時代だから私はこのまま高等遊民やっていこうかな。
ここがいい場所になればいいな。
わずかでも、誰かの、何かになったらいい。
ほてる。ホテル。ずっと、私の安寧の地を探している。